「……っ」
あぁ、まただ。またご主人様が泣いている。
もう何日いや、何年経ったのだろうか。
普段は普通に過ごしているご主人様が時々ひどく寂しそうな顔をする。
誰のことを思っているの…?
誰を思い出しているの…?
手を伸ばしたくても、声をかけたくても。
私には到底できることではなかった。
人形の私はただただ、そんなご主人様を見つめるだけで。
どうして私は人形なのだろう。ご主人様があんなに辛そうなのに。
ただ、見ているだけなら私なんて…。
ご主人様が私の方をみた。
泣きはらしたからだろう、まぶたが真っ赤になってる。
『早く冷やさないとせっかくの綺麗な顔が台無しですよ』
そう言いたいのに、私の体はいうことを聞いてくれない。
ご主人様は私をそっと抱きかかえぎゅっと抱きしめた。
前は痛いくらいの力だったのに、今ではその半分もない。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
ご主人様は私を抱きしめながらもなお、嗚咽を漏らし続ける。
『ご主人様を苦しめるのは一体誰なんですか?』
私はその人物がひどく憎かった。ご主人様を泣かせるなんて許せない。

「そろそろ寒くなってきたし、新しい服を作らないとね」
そう言って笑いかけてくれたご主人様。
私に似合うようにと色んな服を作ってくれた。
「あなたがいれば寂しくないわ」
と、どこへ行くのでも一緒に連れていってくれた。
弾幕が乱れ飛ぶ戦場では守ってくれたことだってあった。
言葉も話せない、動くことすら自分の意思ではできない私をご主人様は家族だと言ってくれた。
優しく髪をといてくれたり、微笑みかけてくれたり…。
時には本当に会話しているように相槌を打ってくれたこともあった。
私はご主人様が大好きだった。
優しくて暖かい、そんな彼女が大好きだった。


ある日、ご主人様の元に一人の女性が尋ねてきた。
真っ黒の帽子に真っ黒のワンピース。 ふわふわの髪を片側だけ三つ編みにした勝気な感じの女性。
ご主人様は嬉しそうに彼女を部屋へと案内してた。私にも紹介してくれた。
女性の名前は『霧雨 魔理沙』。人にして、魔法を使うのだという。
私はこの女性に見覚えがあった。
以前、森の中に迷いこんできてご主人様と勝負した人だ。
あの時はご主人様が負けてしまったけど、今度こそは負けないわと意欲をかきたてられていたのを知っている。
どうやら最近連絡を取り合っていた相手は彼女だったらしい。
いそいそと紅茶の準備をすると、彼女の前に腰掛ける。
本に目を落とす彼女を少しはにかんだ笑顔で見つめるご主人様。
あんなに幸せそうなご主人様を見たのはいつぶりだろう。
私にすら、あのような表情は見せたことがない。
そんなご主人様を見ているとこちらまで幸せな気持ちになるから不思議だ。
「なぁ、アリス」
「なあに?」
「あの人形の服って、自分で作ってるのか?」
彼女が私を指差すと訪ねる。
「えぇ、そうよ。なかなか可愛いでしょう?」
「アリスって少女趣味だよな」
「なっ…!」
彼女が私へと手を伸ばす。
彼女の後ろでご主人様は熟れたりんごのようになってた。
でも、私を下ろした彼女が振り返る頃にはいつもの表情に戻ってた。
「しかし、器用に作るもんだなー」
彼女は机の上に私を座らせると、スカートをめくろうとした。
「ちょっ!なにしてるのよ!!」
とたん、真っ赤になるご主人様。少し怒ってる模様…?
なんで怒ってるのか私にはわからなかった。
「この服、下はどうなってるのかなと思ってな」
ニヤリと笑う彼女にご主人様はご立腹の様子だ。
「そんなとこめくらないでよ。恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしがることないだろ?自分じゃあるまいし」
「自分じゃなくても恥ずかしいのよ!いいからやめて」
ご主人様は彼女から私を取り上げると、ぎゅっと抱きしめてくれる。暖かくて少し甘い香りがする。ちょっと苦しいけど、それは我慢。
「ちぇ。アリスのけち」
「なんですってー?!」
「まぁまぁ。それだけ大事にしてるってことだろ?」
元いた位置に私を下ろすと、服の乱れを直してくれた。
「当たり前じゃない。この子は私にとって唯一の家族なのよ」
その時のご主人様の表情を私は決して忘れないだろう。
まるでひだまりのような暖かい笑顔だった。


それから何度も彼女はこの家を訪れるようになった。
時にはこちらから、向こうへ出向くこともあったけれど。
彼女に会う時は何時間も前から準備したり、鏡の前で服をチェックしたりして落ち着かない姿を何度も見た。
「この服、変じゃないかしら?」
「やっぱり、こっちの色の方が…」
「きゃー、もうこんな時間じゃない。急がないと」
「遅いわね…一体何してるのかしら?」
「今日は来ないのかしらねー?」
そんなご主人様を戸棚の上からずっと見ていた。
どんなご主人様もとてもとても幸せそうだった。
そう、あの日までは…。


その日、ご主人様は珍しく私を連れてはいかなかった。すぐ戻ってくるからと一人で出かけていった。
本当はついていきたかったけど、自分では身動きできない私はおとなしく待っているしかなかった。
日が沈み、夜が来た。ご主人様はまだ帰ってこない。
真っ暗な部屋の中、一人で扉のベルが鳴るのを待った。

―カランー

ベルが鳴ったのは光が差込み始める明け方だった。
『すぐ戻ってくるって言ってたので心配してたんですよ?』
扉を開けて入ってきたご主人様に私は心の中でそう伝える。
ご主人様はいつもなら私にただいまと声をかけてくださるのにそれもなく、ふらふらと寝室の方へと戻っていってしまった。
どうしたのだろうか。あんなご主人様は見たことがない。
心なしか頬も濡れていたような気がするが、薄暗い部屋の中ではその表情を伺い知ることはできなかった。


やがて日が高くなり、部屋の中が明るく照らされる頃に歩くのすら困難なのか、フラフラとしながら出てきた。
いつも早起きのご主人様にしては珍しい時間だ。光の中で見るとその様子は酷いものだった。
皺だらけのワンピースはところどころ泥だらけ。
いつもはさらさらと揺れているその髪もぐしゃぐしゃでまるで泣きはらしたかのような真っ赤なまぶたをしていた。
『ご主人様、一体何があったのですか?』
憔悴しきった表情のご主人様に問いかける。と、突然その場にひざをつき、崩れるご主人様。
「…っ…ひくっ…」
大粒の雫が床へとしみこむ。とめどなく落ちるあれは涙だろうか。
全身を震わせ、スカートをつかむ手に力が入る。
昨日もああして泣いていたのだろうか。
泣きすぎて声がかれてしまったのか、しゃくりあげる音と涙が床に落ちる音だけがいつまでも聞こえていた。


どれくらいそうしていただろう。
泣きつかれたのか、ご主人様はそのまま眠ってしまわれた。
一体何が起こったというのだろうか。
私は生み出されてから今まであんなご主人様を見たことがない。
いつだってご主人様は幸せそうに笑っていたではないか。
それが何故…?

そうだ。
ご主人様はこんな状態なのにあの人は何をしているのだろう?
あの人が来るときはいつもご主人様は幸せそうにしていた。とても楽しそうだった。
今日だってあの人がこればきっと笑ってくれる。いつものように幸せな笑みを見せてくれるはずなのだ。それなのに、なぜ、今日に限って現れない?
早く来て欲しい。そうでないとご主人様が壊れてしまう。今は眠っているが、きっと起きたらまた泣いてしまうのだろう。だから、早く。早く来て欲しい。
そして私の代わりにあの涙を拭いて止めて欲しい。
何が原因で泣いてるのかはわからなかったけど、それでもあの人さえ来てくれればきっと笑ってくれると思った。
だから私は一心不乱に祈った。彼女が早く来てくれますように。


私のささやかな願いは聞き届けられることはなかった。
あれから数日。ご主人様は涙を流すことと眠る以外はしなくなった。
まるで心が壊れてしまったように同じ日々を過ごしている。
その数日の間に彼女が訪れることは一日だってなかった。
私は彼女を憎み、恨んだ。こんなご主人様をなぜ一人にするのかと。
彼女が来てからというもの、ご主人様は時々寂しそうな顔をすることが多くなった。今までは私がそばにいれば大丈夫だったのに。
でもご主人様は彼女が来れば笑ってくれたから、だからいいと思ってたのに。
私の代わりに側にいてくれるならそれでも構わないと思ってたのに。なんで。なんで。
そればかり繰り返し恨み言のようにつぶやいた。
ご主人様は今日も泣いている。


それから幾日たっただろう。
ひどく荒れた部屋の中を颯爽と歩く人影が見えた。
私は埃にまみれ、視界もぼやけている。
背格好はご主人様と同じくらいだ。それだけはわかった。あれは一体誰だろうか。
その人は部屋を綺麗にしようとしているのか、埃が舞っている。
そうか、箒をかけているのか。でも、どうして?
もしかして、私の願いが届いたのだろうか?
彼女がやっとご主人様の元に来てくれたのだろうか?
それならご主人様を呼ばなくては。早く、呼ばなくては。
『ご主人様、あの人が来られましたよ』
これでご主人様も元気になられるだろう。よかった、本当に。
その人は扉と窓を開けると、埃を外へと追い出した。
視界が少しよくなり、その人物を確かめた。
『え…?』
それは黒服の彼女ではなく、青のワンピースを身にまとった女性。そう、私のご主人様だった。
何日も食べていないせいで頬は痩せ、ひどい顔になっている。
体もやせてしまったのだろう、よく似合っていた服も今ではだぼだぼになってしまっている。
それでも裾を踏まないように気をつけながら埃をはいている。
もしかして夢でも見ているのではないかと思った。だって、私のご主人様は…。
「おはよう、上海」
『…!?』
私に向けて微笑んでくれるその表情。
以前のような綺麗な顔立ちではないけど、それでも雰囲気は変わらない。紛れもなく、ご主人様だ。
私が人形じゃなかったらきっと涙を流していることだろう。
ご主人様は優しく私の埃を払ってくれ、顔を拭いてくれる。
「酷い顔になってしまったわね。まぁ、私も人のことは言えないけど」
くすっと笑う。まるで今までのは嘘だったかのように、それからのご主人様は『いつも通り』だった。
彼女が来る前の、ご主人様のいつも通り。
朝起きてご飯を作り、食事を済ませると人形作りに精を出す。
日が暮れ、夜が訪れると作業をやめて床につく準備をする。
今までと何も変わらない日常が訪れた。
いや、ひとつ違うのは時々かんしゃくを起こしたように泣くことだ。
悲しいことを思い出してしまうのだろうか。
泣き叫び、声が枯れると眠り、翌朝何事もなかったようにまた過ごす。
少しゆがんでしまったけれど、それが今のご主人様と私の日常。




ゆがんだ日常を何年も続けてきた。いや、何百年もかもしれない。
年を取らないご主人様と人形の私。
人と違って時の早さをあまり意識しないからわからない。
あまり外に出なくなったご主人様の元に来客を知らせるベルが鳴った。

―カランー

ご主人様は人形作りの手をとめると席を立ち、扉へと向かっていった。
「……!?」
なにか話し声がする。
ご主人様…また泣いてる?
誰が来たのかはここからはわからない。
だが、ご主人様がまた泣いているのだけはなんとなくわかった。
少しして、ご主人様が戻ってきた。やはり泣いたようだ。目が赤くなっている。
でも、心なしかいつもより元気なような…?
ご主人様に続いてもう一つの足音が聞こえる。
それは以前に何度も聞いた懐かしい音。
何度も何度も願った願いごと。それがようやく届いたのだろうか。
黒のワンピースにふわふわの髪を片側だけ三つ編みにした女性―霧雨魔理沙―は変わらない風貌でそこにいた。
前と何も変わらない様子で椅子に座るとご主人様が差し出す紅茶に口をつけた。
ご主人様は目の前に座ると、まぶしそうに目を細めて彼女を見つめている。
「魔理沙。おかえりなさい」
「あぁ。ただいま、アリス。遅くなって悪かったな」
「ううん」
「なかなか大変だったぜ。以前の記憶を頼りにここまでくるの」
ニヤリと笑う。
くしゃっと顔をゆがめて泣くご主人様の頭を優しくなでる。
「なにも泣くことはないだろう? もうどこへも行かないから」
「うん、うん」
なおも泣き続けるご主人様の隣に座り、そっと抱きしめる彼女。
きっとご主人様が流してる涙はいままでとは違う。
本当に良かった。来てくれてよかった。
何年も思い続けた、願い続けた。
ご主人様の涙を止めてくれる彼女が来るのを待った。
やっと思いが届いてよかった。これでご主人様は一人じゃない。
これからは私がいなくてもきっと大丈夫。
だから、私は少しの間だけ眠ろう。
二人の幸せを願って、ほんのちょっとだけ。
次に起きたときもきっとご主人様の幸せな表情が見れると信じて。
おやすみなさい。ご主人様。




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